窓辺の机

窓辺の机から世界を夢想

司馬さんのロシア論

 勢古浩爾さん(『定年後』シリーズでファンだったが)の『バイデン発言はなぜ批判される? 素人にはなにが悪いかわからない』(2022.4.6;JBpress)を読んで、賛成! 痛快!と思ったのだが、『ロシアの暴虐に見る精神と歴史の闇』(2022.5.4;JBpress)も、とても面白かった。そこで取り上げられた司馬遼太郎の『ロシアについて』に興味を持ち、入手して読んでみた。

 私も司馬さんが大好きで、この何年かは『街道を行く』シリーズにすっかりはまっていた。街道の地図を見たり、そこに出てくる書を読んだりしながら、まるで司馬さんと同行するように、各地の街道をたどっていくのが楽しい。街道シリーズにはロシアはないが、ちゃんと1冊の本が残されていたのだ。

 最初の章「ロシアの特異性について」を読んで、やっぱり司馬さんはすごいなあと思った。これを書いたのはまだソ連邦があった頃で(解体寸前だが)、プーチンはまだ登場していない。30年以上も前である。でも、そこに書かれていたロシア(の特異性)は、勢古さんが抜粋されているように、いまのプーチン・ロシア、そっくりそのままなのである。

 これを読むと、歴史について、広く長い射程で研究し、考えるということの力を再認識する。暴虐をふるうプーチンとロシアが、歴史的洞察という網につかまり、すくいあげれれてしまっている。現実の彼らは、すさまじい物理的な力で町を破壊し、人の命を奪っているのであるが、歴史家の洞察の中で動いている操り人形のように見える。

 歴史は、人と社会の遺伝子のように刷り込まれている。どんなに情報があふれる時代になっても、あるいは情報があふれて霧が立ち込めるほど、私たちは、それまでそうしてきたという道を、意識的にも無意識的にも参照しながら進んでいくのだろう。

 でも、将来がどうなり、これからの歴史がどう展開するか、それは誰も分からない。司馬さんのこの章を読んで、ウクライナ戦争の先に起こりうる2つの可能性が浮かんだ。

 ひとつは、プーチンがやがて退場しても、「外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰」(P.25)といったロシアの特異性はやはり変わらないだろうから、また同じような、あるいはその側近からもっと過激な人物が後を引き継いでいく、という可能性(これを予見する人も少なくない)。
 もう一つは、司馬さんの”ロシア革命論”のようなことが起こる可能性である。つまり、ロマノフ王朝のように、ツアーリとそれ以外の圧倒的多数の農奴いう単純な独裁社会構造では、あらゆる配線がツアーリ一人に集中しているので、それを切断し、ひっくり返せば、一挙に体制が消えてしまう。複雑な階級社会構造をもつ西欧では困難だった革命が、ロシア(や中国)では存外容易にできたのだ、という話である。こちらの方だと、プーチンという稀代の独裁者がいなくなれば、民主的ヨーロッパへの歩み寄りという、一挙にいい方向に進む可能性もある。

 でも、ロシア革命が起こり、社会がひっくり返って農奴が解放され、労働者の国家が実現し、世界のひとつの模範のようになったのもつかの間、スターリンという新たなツアーリが登場し、権力と暴力で、あの「特異なロシア」に閉じこもってしまったのだった(今もその道を進んでいる)。