窓辺の机

窓辺の机から世界を夢想

ウクライナ戦争の行方

ウクライナの現状

  侵攻から半年になるが、ウクライナとそれをめぐる国際情勢は基本的に変わらない。

  戦況は、ロシアがキーウ攻略から目標を下方修正していらい、東部と南部の制圧に集中、ウクライナは欧米から武器支援をうけながら抵抗し、持ちこたえている。
 このまま事態が長期化し、ロシアがウクライナ東南部を実効支配、ウクライナがEU側にシフト、といった形で戦線が固定化すると、朝鮮半島のように分断が続く可能性もある。あるいはそうならずにどちらかが優勢になると、かえって戦域と犠牲が大きくなって、歯止めがきかなくなるかもしれない。

 これをめぐる国際情勢が今後どうなるかは戦況の行方に左右されるが、これまでの既成事実のいくつかを確認し、今後の国際情勢を予想してみる。

1.「力による現状変更(武力による侵略、国境や領土の変更)をしない」という国際ル
 ールを、ロシアが破ったこと
1.1. 国連での国際社会の多数の非難と、国連安全保障理事会の機能不全
1.2. 核兵器使用の脅迫

 「力による現状変更」(国家による武力侵攻)疑惑と安保理の機能不全といった問題はこれまでもあったが、今回のケースは一挙にそれを顕在化させた。しかも、国連安保理を担う国が、占有を許されている核兵器で脅迫するという、戦後の国際秩序を根底からくつがえす暴挙に出た。そのことで、国際秩序を担う役割を自ら放棄したのである。欧米も同罪だと言いたいのだろうが、戦略としてはあまりに粗雑である。いずれにせよ、戦後世界をなんとかつなぎとめてきた国連の安全保障体制はこれで終わり、新な制度と機構を作り直していくしかなさそうだ。

2. 欧米、特にヨーロッパとロシアの離反、対立(宥和から対決へ)

 欧米はこれまでプーチン政権を心底からではないが、おおむね評価してきた。政敵やジャーナリストの暗殺、紛争の残虐な軍事制圧、秘密警察を駆使した独裁政治、―そうした手法に眉をひそめながらも、ソ連邦崩壊後の混迷するロシアを曲がりなりにも統括し、経済を成長させ(エネルギー高騰に助けられたが)、存在感を高めてきた国際社会で協調的役割を果たすだろうと期待した。それゆえ、今から見れば今回のウクライナもその延長だったのだが、チチェン、ジョージア、シリア、クリミアなどへの軍事力行使を見逃し、大目に見てきた。
 そこには、かつてのアメリカの中国「宥和政策」と同様の方針があった。つまり、国際市場に参入させて経済成長を助ければ、自由で民主的な国家となり、協調してくるだろうという見込みと期待である(敗戦後の日本がその先例にもなったか)。欧州で存在感を発揮したメルケルの、中国とロシアへの協調的な政策もそうした流れの中にあった(メルケルは東ドイツ出身でもあった)。

 しかし今度のウクライナ侵攻でその宥和路線は一挙に終了、驚くほどのスピードで対決路線へと反転した。衰弱していたNATOはベットから飛び起き、息を吹き返した。プーチンの怒りの主因だったその「東方拡大」は、フィンランドとスウェーデンまで広がり、冷戦時代、ソ連時代どころか、世界大戦前までもさかのぼるほどの、その地域の”中立”政策も放棄させてしまった。またNATOは、東方だけではなく、大西洋の向こうのアメリカとの関係、さらに太平洋も見据えた「西側世界」への “西方拡大” の気配さえある。
 つまりヨーロッパを軸にしたこの変化は、局地紛争における政策や路線の一時的変更といったものではなく、世紀にまたがるような歴史的変化、長期的・構造的な変化になりそうである。

3. 西側世界のロシアからの「資本引き上げ」

 時の政権の決定でいつでも調整可能な「経済制裁」よりも、政治的コントロールは難しいが、企業の「資本移転(引き上げ)」の方が、経済的・文化的影響が大きいかもしれない。それは数十年にわたる計画と、それを支える信用や保証の持続が必要だからだ。
 モスクワから引き揚げた欧米企業の店を没収して自国企業に引き渡し、空いた工場を優遇国の企業に乗り換えさせるといったことでしのいでも、世界の誰でも集まれる市場で自由に競争投資できたときのような、開放感や力強さや将来性は戻らない。
 プーチン・ロシアが最も信頼しているのは、国や人や企業より、地底に横たわっているガスや石油、そして武器と秘密警察なのだろう。国の最大の収入源であるガスを売って得た金は、武器や弾薬に費やされ、それをひたすら破壊のために使う。得られる僅かばかりの占領地と面子と引き換えに、自国とウクライナの人々の命と暮らしが地上から消え、何世代も続く悲しみや恨みが積み重なっていく。
 そういう「経済」が何年も続くはずはなく、世界を魅きつけることもないだろう。

4. “西側” 世界と他の国々との「距離」の顕在化

 今回、ロシアへの制裁に異例な速さで連携した国家群は、いわゆる「西側世界」として輪郭が浮かび上がった。それと同時に、この西側国家群との「関係、距離」がどのようなものかという形での国家群も、その輪郭が様々に浮かび上がってきた。

 それらは、西側世界と「対立」する側の国、賛同はするが制裁には消極的な国、賛同も反対もしない「中立」的な国と、その色合いや濃淡は様々であり、戦況の行方も見ながら、まだ定まっていないところも多い。次第に増えて来そうな気配があるが、“ウクライナの事態は従来の国境紛争・地域紛争のひとつにすぎない(それで国家の方針が変わるほどのものではない)”という、冷めた見方も世界には多い。中東やアフリカではいくらでもあるではないか、というわけだ。

5.「鉄のカーテン」(東西冷戦)、再び?

 しかし、ロシアとヨーロッパの間に「鉄のカーテン」が再び下りたことは否定できないだろう。
   前のカーテンは、約50年間降りた後、30年前に上がり、倉庫にしまい込まれたはずだった。今回のはそれと同じではないが、同じ業者に再発注しなければならないような、明らかに同種のものである。あの時生まれた赤ん坊が、そろそろ人生の幕を下ろそうかというときに、またそれがずるずると下りてきた。― その仕掛け人が、その時の劇を再び持ち出し、その「続編」を開演してしまったからだ。

 (以後は稿を改める)

ロシア軍の失敗の本質

Newsweek:グレン・カール:「ウクライナで苦戦するロシア軍、その失敗の本質」 (2022.5.21)

以下、その要約。

・民間人を標的とするのはロシア軍の伝統的ドクトリン。
・チチェン、シリアでは、爆撃で民間人もろとも都市を破壊するという手法が成功。
・電撃的に制圧し、残虐さや恐怖で威圧して征服。
・“戦争犯罪”など意に介さないどころか、「名誉称号」の対象。

 ロシアの軍事文化は貴族社会で発展したもので、自国の農民(=農奴)も使い捨ての駒にすぎず、ボルシェビキもスターリンも残忍に扱った。自軍の犠牲も厭わないのだから、敵国の民間人には人権もないのである。

 敵対や反抗には何倍もの報復と強迫で屈服させるという「エスカレーション・ドミナンス」。暴力的な攻撃性を前面に出して脅迫。(核兵器による威圧へ)。

 こうした暴力性は、自軍の欠陥の裏返しでもある。兵站の欠陥、組織的な指揮系統と連携や通信の欠陥、兵士の訓練や士気の欠如、略奪や腐敗の蔓延など。

 このようなロシアの軍事ドクトリンは変わらないだろう。

コメント

 なかなか手厳しい記事である。
 ゲラシモフが取り入れ、プーチンの手法と組み合わせた「ハイブリッド戦争」の手法は、エネルギー価格の高騰と重なり、ソ連崩壊後のロシアを大国化させた。しかしそれは、独裁と秘密警察とエネルギー依存経済による底の浅い強国であり、社会や国民の近代化、民主化という地道な努力を飛び越えたものであった。戦況は日々変化しているが、結局、ウクライナ戦争をきっかけにこの国は、司馬さんが喝破していた「古いロシア」(✻)へと再び退嬰していくように思える。

✻5/10「司馬さんのロシア論」

 

冷戦、再び

 冷戦いらい、西側で中立的立場を貫いてきた北欧の2か国がNATOへの加入を申請した。ロシアと国境を接するフィンランドは、ロシアを警戒しつつもそれなりの関係も維持してきたが、完全に背を向けた。スウェーデンは2世紀におよぶ中立を転換した。(二人の女性首脳が、牙をむいて威嚇する熊に決然たる姿勢で対峙するような姿は、カッコいい。)
   大戦前から中立的立場を保持してきたスイスも西側に動いた。EUは、分解の危機にあって”脳死状態”(マクロン)と自嘲されていたが、アメリカも思い直し、かつてなく結束を強化している。

 バルト海をぐるりと囲む北欧2か国のNATO加盟は、ロシアへの強烈なパンチだったのではないか。これがウクライナ侵攻の結果となれば、まさにプーチンの ”オウン・ゴール” である。

 ロシアと西側世界の間には再び鉄のカーテンが下り、冷戦が再現してしまったようだ。戦場のウクライナは過酷な熱戦を戦っている。そこはかつての朝鮮半島、ベトナム、アフガニスタンのような、東西陣営の代理戦争の様相も呈している。
 しかし前の冷戦と比べれば「東側」はかなり劣勢でぜい弱に見える。西側陣営は前のときよりも倍以上もあり、カーテンレールは一挙に東方へ移動し、その東側は中小国がぽつぽつと数えるほどしかない。最大の頼みの大国・中国も、支援の気構えだけは示したものの、コロナ再燃とロックダウンによる経済停滞で、気乗りがしない感じもある。それゆえ、大事にとっておいた核兵器が最大の頼みの綱ということかもしれない。

 世界の多くの国は、西側陣営には積極的に加担しないが、ロシアを具体的に支援するというのでもなく、むしろインフレや必需品の不足に渋い顔をしているように見える。ワルシャワ条約機構の後釜としてはかなり寂しい周辺の同盟国も、しかたなくパーティに参加するが、機会があれば抜け出して食事に行きたいといった様子の周辺5か国で、軍事的経済的規模も小さい。戦術を選ばず、大量破壊使用もちらつかせて暴走する親分にみな腰が引けている。つまりこの冷戦は実質、かつてより余裕ある西側諸国と、経済的にも中程度のロシア1国との、かなり非対称な対決に見える。ロシアは今後いくらかの勝利を得たとしても、その後は世界から孤立し、広大な面積だけを頼りとした巨大な閉鎖国家の鎧の中に身を閉ざし、”潜水艦のように沈下して いく”だけのように思える。

(以上なら希望的観測すぎるかもしれないが、これはこれで問題である。”巨大な北朝鮮”というのも厄介である。それに地図で見てもとてつもなく広いシベリアと溶ける北極海は未開拓で、潜在的な資源や地政学的フロンティアもある、ともいえる。)

 しかし今のところ結束の硬い西側の方も、前の冷戦ほどの力と広がりはないように見える。中国、インド、中東、東南アジア、アフリカ、中南米の多くの国は、以前のようには西側に積極的に加担も協力もせず、距離を置いている。これらの地域は人口でも面積でも、地球のかなり大きな部分を占めている。多くはかつて「第三世界」と呼ばれた国々で、世界を支配してきた西洋の植民地政策と帝国主義、グローバリズムという、数世紀にわたる高圧的な歴史を忘れていないのだ(日本も結局こちら側に位置付けられていて、実際いま西側にいる)。ロシアと対峙している「西側」(欧米と環太平洋国家群)は、世界にまだフロンティアがある時代に、近代化を先行して成し遂げ、世界から資源やエネルギーを安価に調達しながら(あるいはタダで奪い取り)、経済と自由民主主義の豊かさと平和を享受してきた国である。その挙句の大戦争も、それら近代国家同士の衝突、分捕りあいであり、それ以外の地域には大迷惑だった。

 この新たな対立は、地政学的に見れば、大西洋・太平洋の「シーパワー」国家群と、ユーラシアの「ランドパワー」国家群の対立でもあり、イデオロギー的に見れば「自由民主主義」と「権威主義」との対立というふうに描かれる。
 西側は、「自由市場、自由貿易、自由競争」などの資本主義の原則、それと結びついた「言論や政治の自由」という近代社会の価値、また「民族自決、国家主権、国際的ルール」といった近代国家システムを先導し、代表しているという自負がある。他方、いわゆる権威主義的な国家も、資本主義や近代国家システムに依拠し、それを否定することは自己否定にもなるという点で、明らかに劣勢にあるように思える。

 しかしこの違いや分断は、たんに近代化の時間軸の違い(先か後か)にすぎないものを、発展や進歩の度合い、さらには善悪優劣にまで重ね、いわゆる上から目線で見るなら、それがこの暴力的な対立の根っこになっているかもしれない。

 

✻10/20 推敲

 

 

それはこのような戦争になった

 プーチンは「ネオナチに対する特殊軍事作戦」と称してウクライナに侵攻した。
 だが、一般市民を無差別に攻撃すればするほど、それはウクライナ国民全体に対する攻撃ということになる。ミサイルであらゆるところを破壊し、市街地も病院も容赦せず、町をかたっぱしに廃墟にするということは、保護するはずのロシア系住民も含め、ウクライナの土地に暮らす人々を無差別に敵とみなして殺す、ということを表明しているのである。学校や避難所を爆撃して供たちを攻撃するということは、これからウクライナを担う子供たち、そしてその子供たちが生み育てるであろう未来の子供たちをも、全て敵とみなすということである。無抵抗の市民を背後から撃つということは、出会う誰にでもそうするつもりだということである。市民や兵士をロシアに拉致するということは、ロシアへの憎悪を心の底に抱く人々を国内に抱え込むということである。

 「ロシア国民の圧倒的多数が政権を支持している」と表明することは、この残忍な戦争を圧倒的多数のロシア国民が後押しているのだ、と表明することである。
 そのようにしてロシアは、”きょうだい”だったウクライナの人々を、何世代にも及ぶ敵にしてしまった。

 プーチン・ロシアはそれを認めたくないのか、”ロシア系住民を虐殺し、NATOにウクライナを売り渡そうとするネオナチへの特殊軍事作戦”という、色褪せてしまった戦旗をまだ降ろさない。 

 膨大な難民が西側に渡ったが、ロシアにも何十万もの人たちが移動したという。多くはいわゆるロシア系(親族がいるなど)の人たちや、ルートが選択できなかった人たちだろうが、その人たちの多くは、この戦争の実態を体験し、目撃した人々であるはずだ(”ネオナチに虐待され人”を探さねばならないが、多くはそう言うよう圧力を受けているのだろう)。

 開戦から3か月、 ― ロシア国内から外国資本が店を残して次々と引き上げ、かつてない経済制裁が広がり続け、漏れてくる情報は世界中でのロシア非難の大合唱、フィンランドやスウェーデンがNATOに加盟し、スイスまでが離れ、ちょっとした抗議やデモがヒステリックに弾圧され、若い人々が次々と国外に脱出し、一撃でやっつけられるはずのウクライナ軍に押し戻され…。これらの事実を覆い隠すことは難しい。だからこそ「祖国を守るために」と団結する人々も増えるのだろう。そうして、実際は自分たちが始めた戦争が、いつのまにか、自分たちが攻められ、被害者であるかのような戦争に変化し、戦争責任者であった指導者が祖国を守る英雄のようになっていく。いつもそういうパターンだったのではないか。

司馬さんのロシア論

 勢古浩爾さん(『定年後』シリーズでファンだったが)の『バイデン発言はなぜ批判される? 素人にはなにが悪いかわからない』(2022.4.6;JBpress)を読んで、賛成! 痛快!と思ったのだが、『ロシアの暴虐に見る精神と歴史の闇』(2022.5.4;JBpress)も、とても面白かった。そこで取り上げられた司馬遼太郎の『ロシアについて』に興味を持ち、入手して読んでみた。

 私も司馬さんが大好きで、この何年かは『街道を行く』シリーズにすっかりはまっていた。街道の地図を見たり、そこに出てくる書を読んだりしながら、まるで司馬さんと同行するように、各地の街道をたどっていくのが楽しい。街道シリーズにはロシアはないが、ちゃんと1冊の本が残されていたのだ。

 最初の章「ロシアの特異性について」を読んで、やっぱり司馬さんはすごいなあと思った。これを書いたのはまだソ連邦があった頃で(解体寸前だが)、プーチンはまだ登場していない。30年以上も前である。でも、そこに書かれていたロシア(の特異性)は、勢古さんが抜粋されているように、いまのプーチン・ロシア、そっくりそのままなのである。

 これを読むと、歴史について、広く長い射程で研究し、考えるということの力を再認識する。暴虐をふるうプーチンとロシアが、歴史的洞察という網につかまり、すくいあげれれてしまっている。現実の彼らは、すさまじい物理的な力で町を破壊し、人の命を奪っているのであるが、歴史家の洞察の中で動いている操り人形のように見える。

 歴史は、人と社会の遺伝子のように刷り込まれている。どんなに情報があふれる時代になっても、あるいは情報があふれて霧が立ち込めるほど、私たちは、それまでそうしてきたという道を、意識的にも無意識的にも参照しながら進んでいくのだろう。

 でも、将来がどうなり、これからの歴史がどう展開するか、それは誰も分からない。司馬さんのこの章を読んで、ウクライナ戦争の先に起こりうる2つの可能性が浮かんだ。

 ひとつは、プーチンがやがて退場しても、「外敵を異様におそれるだけでなく、病的な外国への猜疑心、そして潜在的な征服欲、また火器への異常信仰」(P.25)といったロシアの特異性はやはり変わらないだろうから、また同じような、あるいはその側近からもっと過激な人物が後を引き継いでいく、という可能性(これを予見する人も少なくない)。
 もう一つは、司馬さんの”ロシア革命論”のようなことが起こる可能性である。つまり、ロマノフ王朝のように、ツアーリとそれ以外の圧倒的多数の農奴いう単純な独裁社会構造では、あらゆる配線がツアーリ一人に集中しているので、それを切断し、ひっくり返せば、一挙に体制が消えてしまう。複雑な階級社会構造をもつ西欧では困難だった革命が、ロシア(や中国)では存外容易にできたのだ、という話である。こちらの方だと、プーチンという稀代の独裁者がいなくなれば、民主的ヨーロッパへの歩み寄りという、一挙にいい方向に進む可能性もある。

 でも、ロシア革命が起こり、社会がひっくり返って農奴が解放され、労働者の国家が実現し、世界のひとつの模範のようになったのもつかの間、スターリンという新たなツアーリが登場し、権力と暴力で、あの「特異なロシア」に閉じこもってしまったのだった(今もその道を進んでいる)。

 

「誰の」戦争か

 プーチン政権の支持率が8割を超えたとのこと。✻1.
 この数字は国民にも公表されたのだろう。つまりウクライナ侵攻は、単なる”プーチンの戦争”ではなく、国民の圧倒的多数が支持する「ロシアの戦争」になってしまったわけである。その責任は国民も背負う、ということになる。

 古代や中世の王なら、戦争は自分たちの戦争であることを自覚し、(国民というものはまだほとんどなかったから)平民は、「あ、またやってるな」という感じもあったろう。関ケ原の戦いも、農民たちは丘のあぜ道に座って飯を食いながら見物していた、なんて話を聞いたことがある(好きな話だ)。王侯や貴族や武士は、特権や富を持つ代わりに、戦争も自分たちの生業と考え、たいてい、町や村から離れた戦場のフィールドでやっていたのだ(競技場での勝負、といった趣もあった)。領民たちを敵から保護するのも、生活必需品を生産するのが彼らだったからだ。武士は刀を独占し、その刀は敵を斬るためのものだけではなく、自分の腹を切るためのものでもあった。

 近代になって、身分や階級がなくなるとともに、戦争も平等化されて「国民の戦争」になった。

 今の「プーチン・ロシアの戦争」は、皮肉なことに、彼らがそれと戦っていると主張する「ナチス」のケースにとても似ている気がする。ヒトラーが政権を取り、ドイツが戦争に突入し、ユダヤ人を虐殺していった歴史が蘇る。ヒトラーも選挙で政権を取った。周囲の国が、第一次大戦への制裁でドイツを追い詰めた、という背景もあった。国民は ”プロパガンダ” に染まり、戦争を支持した。ユダヤ人のホロコーストや外国での暴虐はあまり知らなかったかもしれないが、あちこちから伝わり、見て見ぬふりをすることも多かったろう。けれども、殺すか殺されるか、勝つか負けるかという戦争になってしまううと、それしか考えなくなる。
 あの戦争やホロコーストを、ヒトラー個人の特異性に集約し、還元してしまいたくなる誘惑にかられる。彼を歴史的に断罪し、その存在の記憶を抹殺し、封印しようとしても、国家と国民がその戦争を行った、という事実は消えない。「プロパガンダで洗脳され、マインドコントロールされていた」というなら、それを許してしまったということである。

 われわれ日本人も、あの戦争を、”ヒロヒトの” とか ”トウジョウの” 戦争とは、ほとんど考えていない。政府を支持し、自分たちも主体的に参加していた、という思いはある。それへの ”一億総懺悔” という言葉もあり、市民を殺戮したアメリカの空襲や核兵器を、どこかで受け入れざるを得ないと考えているところもある。けれども、70年以上も過ぎた終戦記念日の黙とうに、あの戦争に巻き込んだ膨大なアジアの人たちへの追悼は、いまだに含まれていない。 

  
✻1. 次の記事に感銘を受けた。  

 「プーチンの戦争とロシア世論」(石川一洋)2022.4.21 NHK解説アーカイブス 

 この記事を要約する。

・信頼できる独立系メディアの面接調査で、「ロシア軍の軍事行動」の支持が81%、しないが14%だった(3/31)。支持は高齢者ほど多いが、若い人でも70%いた。
・次のことを考慮に入れなばならない。
・「ウクライナをネオナチから開放する」「ロシアの安全保障のため」の戦いで、「残虐行為はウクライナの偽情報だ」といった政府のプロパガンダ。
・戦時下の厳しい法律と取り締まり。反対しにくい雰囲気。
・欧米の激しい制裁と世界的な反ロシアで、かえって反発と愛国心が目覚めた。
・こうした中で 14~20% の人が反対というのは決して少なくない。「不安だ」「暴力は望まない」と考える人はもっと多い。
・だから、反ロシアの気運でロシア人全体、その歴史や文化まで否定するのは行き過ぎだし、かえって逆効果だ。「一般のロシア人とロシア文化は敵ではない。戦争の真実に目を向けてくれ、と粘り強く伝え続けていく必要がある。」国内にとどまって静かに異を唱える人やアーティストもたくさんいることを忘れまい。

 だから石川さんは、これは「プーチンの戦争」としたいのだろうし、最後で語られていることは大事にしたい。
 いずれにせよ、この世論調査の数字は、私たちが目にしてきたウクライナの惨状がロシアでも正確に報道されていれば、一挙に変わってしまうだろう。その意味で、正確な報道というものが(言論の自由とともに)いかに重要か、ということである。 ― このことについては別途考えたい。

 

〔更新:2022/4/30〕

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