自分が生きてきた時代とはどのようなものだったか、それを「世界」から、また日本という国からも、見ておきたい。それはもう「過ぎたこと」ではある。でも過ぎたことは、過ぎたからこそ変わることのない真実として、そこにある。それは、終わってから初めて読むことができるストーリーでありシナリオなのだ。「歴史」というものの意義はそこにある(History : 記述されたストーリー)。
だが、その「変わらない真実」がどのようなものであり、どんなストーリーであったのかは、はっきりしているわけではない。起こった出来事も、起こったことは確かでも、それがどのような出来事だったのか、見ようとすると様々な姿をしている(芥川の『藪の中』)。なかには、その出来事そのものが ”なかった”と言われるものもある。
そうした不確定性があるからこそ歴史学というものがあり、「過ぎたこと」を見直すことが、安楽椅子で目を閉じて追想にふけることではすまないことにもなる。国家や政治の特技である過去の捏造を監視することは、未来の創造にかかわることでもある。
世界は空間と時間の奥行きをもった森のようだ。その無限の厚みが、私の生きている「いま・ここ」にまで繋がっている。そこには本来、境界も切れ目もないはずなのだ。