窓辺の机

窓辺の机から世界を夢想

”プロパガンダ” vs ”プロパガンダ” ― どちらが正しい?

 対立している両方が、「向こうは(誤った)プロパガンダに染まっている」と言っている。こうなると、どちらが正しいのか(真実に近いのか)、どう判断したらいいのか分からなくなってくる。

 でもそれを判断できる条件が一つある。それは「言論の自由」があるかどうかだ。

 言論の自由がある側は、多様な見解、批判的な見方、別の観点、複数の検証方法などが認められていて、人々はそれを吟味し、付き合わせ、議論する。政府の公式見解や政策が決まっても、人々は批判したり反対したりすることもできる。公的な場で議論をし、それが妥当かどうかを決めなおすことができる。個人も、どのような見解でも、他者の権利を侵害しなければ、公表することができる。
 言論の自由がない側は、権力が提起し、認めるものしかない。人々はそれを一方的に受け入れるしかないのだ。言論の自由を認めないということは、「自分が間違っているかもしれない」ということを認めない、ということだ。

 それゆえどちらの側が「プロパガンダ」か、おのずから明らかだ。その内容、その主張がどのようなものなのか、それに何万もの言辞が費やされようと、ほとんどどうでもいいものに化してしまう。

 
   信念の体系(イデオロギー)は、戦争にもなると、命をかけ、命を捨てさせるほどのエネルギーとなる。それがプロパガンダによってマインドコントロールされた殺戮なら、殺される側も、殺す側も、取り返しのつかない悲劇でしかない。
 だから言論の自由というものは、人間社会にとって不可欠な、ほとんど最初の条件とさえいえるものであり(その制度化とメンテナンスは膨大な努力と試行錯誤が必要だ)、それを獲得してきたことが歴史の最大の成果ではないか。それがなければ、どんなに空中楼閣を築いても、空しい。